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2011年5月29日日曜日

時代小説 母

戦争中、学童疎開があった。戦火をさけるための疎開先の田舎で、妹とふたり寝おきしていた。布団は古いが日向干しをよくしており温かく柔らかかったのを覚えている。父と母と離れて、東京からやってきた、この田舎で、厄介になっている婆さんは(私たちの血縁の祖母というわけではなかった。どういう関係なのか今となっては知りようもない)漬物や味噌汁を用意してくれたり、いつもこまごまと働いていていたのを覚えている。妹はこのとき10歳にならないくらいのはずだった。川に遊びに行ったり、戦争中とはいえ疎開先はきな臭いにおいのしない世界だった。


この婆さんは口うるさいことを一度もいったのをみたことがなかった。説教めいたことは一度だけ夕食の時にしたのを覚えている。
「女の子は自分の子供を大事にしないと幸せになれないよ」
自分の幸せより子供の幸せを願わない限り、自分は幸せになれない。
これが田舎婆の唯一の哲学だったようだ。
父親に甘やかされすぎると、自分が甘えたいあまり、子供をかわいがらなくなる。こうも婆さんはいっていた。
妹は茶碗越しに上目で婆さんをちらっと見て、飯をかけこんだ。


あの神風特攻隊でさえ、「敗北よりはいい、敗北よりは…」と言って死んだのではなく、「お母さん…」と言って死んだというのだから、やはり母とはいいものなのだろう。仏壇の母を悼んだあと、独身時代を思い出していた……。

独身で一人暮らしをしていた自分の所に、学校を卒業した妹が居候しにやってきた。町工場で働きながら、食事の用意や洗濯などをやってくれた。
やがて、見合いで結婚し出ていったが、子供を一人産んだあと、車にはねられ死亡した。新聞の記事に小さくのった。



今年の夏は暑かった。
日中、蜃気楼とか陽炎というのか、湯気がゆらめいている。
なんとも神秘的で暑さもむしろ怖いくらいに寒かった。
麦藁帽子をかぶった女が100mくらい先を歩いている。
ゆらゆら暑さでゆらめいている。
学校を卒業し居候にやってきたころの妹にそっくりだった。
思わず、追いかけようとしたが、その地点についたころにはもういなくなっていた。
それから、四、五年の間。真夏の暑い日には妹の幻を幾度か見た。




2011.5.28脱稿)





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