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2015年5月19日火曜日

日本怪談 雨垂童衆(あまだれわらし)


日本怪談 雨垂童衆(あまだれわらし)





まえがき

卒業して上に上がったり、違う土地に行ったり、人間は成長すると人生の場面が変わる。
あるいは成人してからでも、時間とともに場面が転換することはありうる。
その土地に移動すると女の子の印象がいい、居心地がいい。
誰か一人でなく、その土地の全般的な女性のインパクトが良い。
すると意識的には考えていなくても、潜在意識の中で、みとれて負けを認める。
すると、男性はその土地に「あー、ここだ、ここだ」とテントをはって陣地をとるようになる。
するとどうなるか。
架空の世界に関して今まで関心があったのがいまいち興味が持てなくなる。
頭にはいらなくなり、現実的な情報を欲しがる。
「いくら面白くてもおとぎ話だろ」
金を稼ぎたくなるというのもある。物欲にかたより、見たら消えてしまう情報(映画など)をやや失う。
こうなり、理論よりは技術。技術は現実の世界を動かすことができる。が、理論は絵空事との境界線に値する。社会的に空想物語から離れ、新聞記事、ニュースなどに傾く。

男の側も集団就職ではないにしろ、波動の位相がおもわずそろうのか、次々と陣地をとるようになる。そして硬い男性になる。
相変わらずコミックを呼んでいる組は「自分たちは永住する気はないから、どうぞご勝手に」となる。しかし、若干実体化している組に威張られて面白くない思いをする。
情報や理論組からみて実体化、物質化している組は野蛮だが大人で現実を見ており、結婚を無意識的に覚悟しているように見える。しかし、未来が限定され将来がないように見える。超常現象が苦手になり、今の自分をこえた力に対して頭を下げるが、自分以下の権力に対して頭を下げなくなる。新しくやってくる、自分の力以上の困難をのりこえる気力はなくなりがちだ。


西洋の怪奇小説、吸血鬼やモンスターの話はともかくとして、日本怪談の本質はずばり、「ままごと」なのだと思った。成長が止まってそれ以上の冒険をしなくなった男性は(それが青年のときであろうと、中年にさしかかっていようと)生活のサイクルが繰り返される。
怪談は幽霊が出るにしても、見間違いくらいであり、天辺地位や天地崩壊のような大それた現象は起きない。
いわばポテンシャルが低くなった人生の段階での怪異現象であり、冒険時代の危険だが何もかも覆すようなビックな、劇的な現象ではないのである。

この「雨垂童衆」は泉鏡花の「海異記」、森鴎外「蛇」を参考として書かれている。
実体験をもとにしているのではなく、理論的、解析的につくられた人工会談といえる。
古い言い回しが難しくうまくいかないが、ご了承を。








『雨垂童衆』



1



夏場の天気がいい日。
からっと晴れた空。
どこまでも塗りつぶしたみたいな青。
実に健康的だが、小学生の元気がいいのみたいに子供じみている。
意外と自分も体が健康みたいだよ。
という気分になるが、頭の方はまんじりと悪い気分になる。

意外と自分はおバカさんみたいだよ。
アイスでも食べて腹が崩れると神経のバランスが崩れてすずしくなるだろう。
そうでもなければ、にわか雨でもざーっとふらないか。
そう、夏バのバカみたいに青空、白い雲。
清潔すぎて潔癖だが、灰色の曇った雲と雨が、ちょうどいい具合いに神経質にしてくれる。

なんだかつい3年ほど手前より、比べて天気がどうのとか、近所がどうしたとか、小さいことに関心がいっている。
目まぐるしかった、このまえはそんなこと気にして過ごしている時間がなかった。


家内のサダコは庭にいるのか…
休みの日に、竹簡木簡(ちっかん・もくかん)は大げさだが、すずりをだして漢書を筆写してみている。
墨をおちついてこすり、ゆっくり時間をつぶして書いていく。
一時間ほどで手を止めた。
偉い先生がみたらペケをつけるだろうけど、自分で飾っておくには上出来だった。

「うん、上出来だ。専門家のひとにしたら認めてくれないだろうけど」

サダコが帰ってきた音がする。
なんでも数件先の旅館に外国人が来ているそうだ。
「へえ」
「それが、わたしたちが食べ飽きたようなオカズをみてやたらと喜んでいるっていってらっしゃるわ」
「へえ、どんな」
「魚がおいしいって、自分の国じゃ魚が食べられないっていう話よ」
「魚か、魚。まあ、おいしくてよかった」



2



夕飯を食べて休日がおわった。
住居のとなりにある診療所で勤務する。
木造の建物で自分で緑茶をいれて湯呑で飲む。
以前は看護婦を雇ったこともあったが、もうやめた。
ここの診療所にくるのは、風邪かヨードチンキをつける程度の患者で、骨折の患者をたまにみると冷や汗が出るくらいなものだ。
どうも、数年前より、自分の修業をあきらめたときから、自分と同一な人物としか合わないようになったようなのだ。
ドクトルとして最先端医療も勉強した。論文、研究論文も読んでいたし、専門雑誌で世界の医療に首をつっこんでいたつもりだった……
だが、読めなくなった。何を言っているのかタイムマシンに乗ったでたらめに読まさるのである。
現実、今あつかっている包帯やら医薬品やらを愛好するようになり、大切に扱っている。
以前野心的だったとき、古臭いつまらない小道具のように思っていたときがあった。



3


診療所にある時計と住居にある柱時計、それに愛用の懐中時計。
この三つの時計が自分の時計だ。
あとは、カレンダー。
これも時計だ。
今の自分にとって本当に動く大切なもの。
朝届く朝刊。
これも時計じゃないのかね。
夕刊をとったこともあったが、朝刊がはいらなくなりがちになる。
欲張らなくても、朝刊を読めば足りると気がついた。
しかし、どこそこの大企業がどうしたとか、自分と無関係の世間の時計の針が動いているだけで、自分にとって無関係に思える。
「こりゃ、古新聞じゃないのかね、サダコさん」
「あら、古新聞をだすのを忘れていたわね」
そういってあっちにいってしまった。

確かに新聞はわたしにとって動く時計だった。
社会や世間という時計が実際に動いている。
チクタクチクタク…
だまっていると、毎日同じ日が来る。
古新聞を黙って差し出されて呼んでいるのかと疑いたくなるのである。

インクの紙面の乾き具合だとか、小さいことで喜ぶようになった。
この小説はダイナミックな冒険小説のような恫喝はない。
だが、静かに生活を送っている人の温かみはある。
なにかをしている小説は読み手にとっても疲れることがある。
実際、活字を立体化させる脳と心にエネルギーのゆとりがないことには、読むのが億劫で、マラソンにも似る。



4


時計でなくても時計があった。
診療所の窓から見ると、夕日に近くなっている。
夏なので、うーん、こんな時間でもこのくらいか。
でも、勤務時間の終わりを悟った。

サダコは質素で清潔な女であったが、白い色の冷蔵庫の冷凍庫を開いてでてくる、製氷皿を取り出したみたいに、白い煙をあげているように感じる。
熱源として自分を吸収している気がするので、こっちからすると体感的に温度が冷たい。
それが、怪談の日常の生活の、腹を下すアイスクリームの変わりの幽霊現象の正体なのかもしれない。
電熱器や蒸気機関車の機械工学のようだが。
それにしても数年前、サダコをもらうまえの修行医師のときの自分には、体と心にSL機関車がそなわっていた。
それは男性であり、それが今はぱっくりと開いた、へその緒の穴がいまさら風船のように開き、夜空に向かってSLが走り去っていってしまったのだった。
あとにのこされたのは日常の連続だった。
あのころは超常現象がおきていたのか?
正確に思いだそうとすると、だいたいホラのような気がする。
大した思い出はない。

サダコは着物も襦袢も買って与えるくらいしか欲しがらない。
しかし、ドクトルとしての診療所の仕事での稼ぎは決してゆとりはなかったから、せいぜい知れた枚数の数であった。
だんだん気がついたが、開業医としての仕事はバクチ的要素が少ないらしい。
実際手を動かして、腹を痛めた分だけ手取りになるようなのだ。
思えばバクチをうっていた時分は修行していたころの自分なのだと思っていた。
あのころは反対に考えていた。もう少ししたらバクチをうとうみたいな。




5

「だんだん乾電池も単一が少なくなってきたよ。単二電池ばかりだ」
「あらそう。そうね」
お漬け物やら梅干しがどう違うかとか、そんなことばかり気にしているのに気がついた。
腹は確かに減るから時計は回っているらしい。

梅干しなど、すっぱいだけで飯をやりすごすだけみたいに、素通りしていた気がする。

飯を炊いている匂いがする。
味醂と醤油の匂いもする。
釜で炊く、白い米が煮えている様を想像した。
湯気をあげて米がそろっているかのように踊っている。
ぐつぐつぐつぐつぐつぐつぐつ
木製の飯櫃とへらでかき回すご飯。

それらは確かに自分にあたる御馳走だった。



6



旗日が来た。
カレンダーに確かにそう書いてある。
診療所を開け閉めするのは自分の管轄だが、不安になりサダコに尋ねたくらいだった。
休んだ。
新聞を広げる。
新聞小説を読んで、サダコに「おまえ、もしさっぱりしてきれいだといわれたらどういう気分になるのか」
「そりゃ、ゆるされたというのか、急に脱力したみたいに楽になりますわ」
「そういうものかね」

新聞を見ているとやっと時計の針が動いたというような記事をみつけて得意になった。
自慢できるという気分になる。

この時代でもビールがあった。
薬局に売っているのはもっと昔だった。
酔っ払って顔が赤くなる。





7


ドクトルの仕事の診療所はバクチ稼業ではないが、それにしても稼ぎがバクチにならないのが少し悔しい。
余分な収入とはいかないし、動かした分だけ、腹を痛めた分だけ、体が疲労してどうにもならなくなる。

おもえば、あのころの己の仲間の一人の男に、最先端の塊のようなやつがいた。
「あんな男と付き合う女は、かっこがいいかもしれないけど、疲れるはずだ」
そうみていた。
医者の勉強だけでなく、野山にも冒険にもいった、海にも。
しかし、時計の針を動かすといっても、エネルギーを無駄遣いして、時間を早送りしてしまっているような感じがする。
其のような話は砂糖汁を煮詰めて焦がして、喰えそうな香ばしいけど食えない茶色い焦げみたいな話だ。
時間が未来にむかってすすんだが、喰えなかったよ。
読書も、医学書は勉強の道具だったが、あらゆるジヤンルを読んだ。
が、流し込んだだけで、読み流すために読んだ気がする。
尋常小学からの勉学とは、生まれたゼロの知識から千年、二千年の知識を早送りするためにつめこむのであろう。
子供はそうするしかないが、大人になると無理な読書は現代を生きないで、天竺でくらすために時計のネジをまいているかのようでもある。

日本にいると中国四千年の歴史に秘宝や秘術が隠されていそうだ。



8


夏の天気は変わりやすい。
休日に万年筆で革のノートブックに漢書を筆写していた。
インク瓶にペン先をひたして、一呼吸置く。
紙にインクが乾きながらだ。
何どうせ、時間つぶしの娯楽だ。
高速で処理していたあの頃はスピードのある音速の乗り物に乗っていたのに違いなかった。
しかし、めまいがするわ、耳鳴りもするわ、体の骨を悪くする生き方だった。
しかし、手に職をつけるため、若いうちは仕方あるまい。
自分と異質な人間にも大勢あったな。
今は安全だが、限られた方の人間にしか出くわさなくなった。
どれ、すこし無茶をして冒険してみようか。

夏場の健康的な明るさと熱気がほどよく、あまりの安全と安心感が無粋にかんぜられる。
そのうち西瓜でも割る気配がある。表の庭にプールした水に浮かんであるのをさっき見た。

健全だが、意識がぼーっと無神経になっていた。
雷の音が先だった気がする。
ゴロゴロと神経が下りはじめる。
さらには太陽の日差しが隠れ、黒い夏場の雲にかわるや、さーっと溶けたような水が本当に落ちてきた。
初めて雨というものを見たような気持ちになった。
みぞれのアイスのような不安感が胃というより腸からおきはじめた。
「書きものなどすると、胃腸が神経質になる。脳みそに吸い取られるからかな」
不安定で不安なのが、夏の蒸しを快くしてくれた。

自分というものが、覚醒しているのに寝ているように確かになかった。
それが雨とともに確かにある。
それは物質化したといってよかった。
モノが確かにそこにある。そんな感じに近かった。

ふと頭がぼんやりからはっきりに移り変わる。
玄関に歩いていってみた。
すると、四、五歳の童衆がひとり立っている。
細君はどこにいったかいないようだ。
目に涙をためている。
白い足に草履をはいている。
子供の足だ。
ひょろっとして大根のような童衆の手足はやわらかそうだった。
目に涙をためて、わんわんわーんと泣き出した。
外は童衆の涙を倍にしたくらいの大雨になっている。

ズルを覚えた年の子だったらやだったが、清い小僧だ。
男の子なのは間違いないが、髪が坊主ではなく、のばして束ねてある。
着物も今時ではなくおふるの…
「己の爺さんの着ていたような」

なかにいれて手ぬぐいで頭をしごいてやった。
お茶を薬缶で沸かし、急須にどぼどぼいれた。
そとは涼しくなってきているので具合がいい。
湯気が特徴がある。
湿度とか気温の移り変わりでこういうとき特有なのだろう。
団子を出してきて喰わせた。
童衆はくやしそうに、団子をわしわしと食べる。
「全部食べるのか」
「わし、全部入る」
「吾はどこの子じゃ。どこから来た?」
「わし、……」
「男の子だな」
「そうじゃ」
団子をほっぺを膨らませて食っている。
返事を答えずに茶をずーっとあっちを向いて飲む。
童衆は甘えるだけ甘えた。

ぶるっと寒気がした。
幽霊の類だと嘘をいう風でなくいう。
ちょっと厠に、と立ち上がる。
もどったときには団子の皿と湯呑のお茶がなくなっていて、童衆はいなくなっていた。
ガラッと玄関の戸が開き、妻が雨に濡れて戻ってきていた。














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